ページの先頭です
本文へジャンプします
山梨県立図書館へ
山梨デジタルアーカイブ
文字サイズ
小
中
大
ここから本文です。
カテゴリ
/甲州文庫
請求記号
甲090-ニシ-61
書名
身延山図
ミノブサンズ
著者名
梅寿国利/画
出版者
兒玉弥七/コダマヤシチ
出版年
明治 14年
1881年
形態
形態1:錦絵 形態2:原 大きさ:36 72 枚数:1マイ
注記
解説: この錦絵のように、身延山久遠寺に立派な伽藍(がらん)が整備されるのは、江戸時代になってからである。江戸時代になると、日蓮宗は江戸の商工業者をはじめとする町人や一般大衆に強い影響力を及ぼすようになる。多くの信者たちが各地から身延山や七面山の霊場へ参詣し、身延は全国的に知られた門前町となる。また、七面山へ参詣する信者が宿泊した旅館が今でも残っている。なお、この錦絵の作者は、江戸末期から明治にかけて活躍した歌川国利で、彼の号は梅寿(ばいじゅ)である。
内容紹介
詳細解説: 建長5(1253)年、立正安国の旗を掲げて法華経を開宗した日蓮は、20年後の文永(1274)年、派木井庄の地頭波木井実長の招きで身延山に入って久遠寺を開いた。この宗派は応仁の乱の後の16世紀の戦国時代にも大きく発展するが、この錦絵のように山門をはじめ祖師堂の伽藍や奥の院や七面山などに立派な堂宇が整備されるのは、商工業者をはじめとする一般大衆に強い影響力を及ぼすようになる江戸時代以降である。 江戸時代になると太平の世が続き、特に18世紀以降は幕府や各藩の産業の奨励策もあり、商品貨幣経済の発展は著しくなった。その結果、江戸を中心とした町人・大衆の経済的・文化的自立はめざましくなり、このような中で、各地の神社・仏閣や名勝旧跡を旅することは、信仰と結びついた大衆の一大娯楽となる。身延山へも江戸をはじめ各地から、「講」を組織した人々をはじめとする人たちが、甲府の宿場を経て、駿州往還(河内路)の鰍沢に至り、そこから舟などを利用して旅をしている。その様子は、『身延参詣甲州道中膝栗毛』や十返舎一九の『身延道中之記』にも記されている。
キーワード
身延山,錦絵,七面山
資料番号
0400214409
甲州文庫区分
軸物・錦絵
本資料のURL
/da/detail?tilcod=0000000021-YMNS0121789
画像
画像を見る
高精細
ページの最後です
ページの先頭へジャンプします